私はなぜ鹿島サポーターになったのか。小学生の私が感じていた「鹿島らしさ」とは。

今回は回顧録。

私がなぜ鹿島サポーターになったのか。実はブログに書いた事が無かったので、改めて書いてみたいと思う。

鹿島アントラーズのサッカースクールがきっかけ

端的に言ってしまえば、小学校の頃に鹿島アントラーズのスクールに通い始めたのが、鹿島サポーターになったきっかけだった。

私が生まれ育ったのは茨城県日立市。

日立市は鹿島アントラーズのホームタウンでも、水戸ホーリーホックのホームタウンでもない、茨城県の街。(※鹿島のフレンドリータウン、ホーリーホックのホームタウン推進協議会加盟市町村ではある)

その街で、普通にサッカーをしていた小学校時代。

小学5年生の時に、学校の少年団とは別に、平日に鹿島アントラーズのスクール(日立校や高萩校)に通わせてもらえる事になった。それが丁度2000年くらいだった。

正直5年生まではどこのチームが好きとか嫌いとかはなく、ぼんやりとJリーグを見ていただけだった。

なので鹿島アントラーズの鮮明な記憶があるのは2000年から。

このスクールに通わせてもらって、フリークスが家に届くようになって、小学生ながら鹿島のエンブレムのついたジャージでプレーさせてもらって、たまの休日には家族+友達とカシマスタジアムに出かけるようになった。そこからはずっと鹿島サポーターだ。

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柏レイソルのスクールもあった

私の育った街は日立市ということで、日立製作所の企業城下町でもある。

そんな縁もあって、柏レイソルのスクールも不定期で(無料で)開催されていた。

私はそのスクールにも行っていた。

もし鹿島アントラーズが県の北部でスクールを開催していなかったら、もしかしたらレイソルサポーターになっていたのかもしれない。

私の運命を変えたと言ってもいい、鹿島のスクール事業だったと思う。

鹿島のスクールの料金は今見たら週1回で月額会費5500円。そこまで高くないけど、決して安くもない。通わせてくれた親には感謝したい。

鹿島アントラーズの原体験

小学生の頃にカシマスタジアムには何度も行っていた。その頃の鹿島アントラーズに対して抱いていた印象が、私の鹿島アントラーズの原体験になる。

私の鹿島アントラーズの原体験は、美しさや上手さではなく、汚さや貪欲さだった。

天皇杯で大学生相手に肘打ちをするほど闘争本能をむき出しにする秋田豊や、しつこいまでにボールに食らいつく本田泰人。それらが印象的で、彼らの貪欲さこそが鹿島アントラーズらしさなのだと思っていた。

確かに小笠原や柳沢の素晴らしいゴールも記憶にはあるが、小学生の私が衝撃を受けて「これが鹿島なんだ」と思った選手は秋田や本田泰人だった。

その原体験は未だに引きずっている。モデルチェンジをした後の鹿島だろうが、親会社が変わろうが、いつも勝利に貪欲な鹿島が見たい。みっともなくても1対1の勝負にこだわる鹿島を見たい。

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憧れた選手・中田浩二

秋田や本田泰人のプレーに衝撃を受けた一方、どことなく共感し、憧れた選手もいた。

中田浩二だ。

ピッチ内でいざこざが起きるような時は仲裁に入る事が多く、クレバーにチーム全体の事を考えている。

私は秋田のように情熱的に振る舞う事のできない選手だったので、中田浩二の動きや所作を真似しようと思った。中田浩二のような振る舞いが自分には合ってると思った。

鹿島らしさを継承してくれた選手・小笠原満男

秋田が去り、本田泰人が引退した後、私が感じていた”鹿島らしさ”(つまり汚さや貪欲さ)を表現する選手がいなくなってしまったように感じた。

そこに現れたのがイタリア帰りの小笠原満男。

小笠原が、私の好きな”鹿島らしさ”を再び取り戻してくれた存在になった。

小笠原がピッチで見せてくれた貪欲さは、まさしく秋田や本田泰人が表現していた”それ”を受け継いだものに映った。

対戦相手から大きなブーイングを受けるのも、いつも小笠原だった。おそらく私が感じていた”鹿島らしさ”は、対戦相手にも伝わっていたのだろう。

鹿島らしさを継承する選手

小笠原や優磨や金崎がいなくなってから、私の原体験である”鹿島らしさ”を感じる選手は、残念ながらまだいない。

今の鹿島は相手からブーイングされるような選手が少ない。時代が変わっても、サッカーが変わっても、鹿島には汚くて貪欲な選手が常にいてほしいと思う。小笠原の魂を受け継ぐ、そんな選手がチームを引っ張っていってほしいと思う。

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