久しぶりのブログ更新です。今回は鹿島アントラーズの「信仰」と「研究」について。
オンザピッチの鹿島のスタイル
いきなりだが、ザーゴの話をする。
ザーゴ招聘は鹿島にとって何だったのだろう。という話。
これを最近考えている。ザーゴが鹿島に残してくれたもの、今後も残りそうなものってあるのか。
結論から言うと「難しいな。」というのが正直なところ。
ザーゴが残してくれたものが全く残らないとは言わないが、鹿島がザーゴに期待していたスタイルは引き継がれない可能性が高いだろうな。という印象が強い。相馬監督のもとでの鹿島のサッカーを結構たくさん見た結果、そう思う。
じゃあ今後、鹿島のサッカースタイルってどうするんだっけ?という話は私には今の所わからない。
でも過去~現状を深堀りする事はできそうなので、少し深堀りして考えてみる。
これは少々ネガティブな話になってしまいそうなんだが、決してネガティブではなく前向きに、将来的に鹿島が圧倒的なチームになるために、深堀りして考えたい。
信仰の強さが鹿島アントラーズの強さ
まずはじめに事実として、鹿島アントラーズは数多くのタイトルを取ってきた。日本で一番取ってきた。
時代時代で鹿島のオンザピッチでのスタイルは微妙に異なるが、(オンザピッチ・オフザピッチ問わずに)共通していた事もあると思っている。
それはクラブに息づく「信仰」の強さ。いわゆるジーコスピリッツだ。
哲学とも言えるのかもしれない。クラブが最も大切にするべき価値観が、選手にもサポーターにも監督にも、恐らくスポンサーにも伝わっている。
ピッチの中でも外でも同じ価値観を共有できる。これは鹿島アントラーズの唯一無二の強みだと思う。
国内でここまで信仰が強いクラブは鹿島アントラーズ以外には無いだろう。
新しいサッカーのスタイルを構築するのは案外時間はかからない、というのが私の考えだが、「信仰」だけは一朝一夕で作れるものではない。というかそうそう作れない。
いや、そんな事は分かってるよ。という声が聞こえてきそうなので次の話に向かう。
鹿島らしさとは?
問題は、「クラブに息づく信仰」とオンザピッチの関係性である。
端的に言ってしまえば、2019年以降の鹿島はここに苦戦していると思う。
実況や解説の人がよく「鹿島らしい」などという言葉を簡単に口にするが、私はあまりしっくり来ない事が多い。
最近の2-0で勝利したマリノス戦を見て、私は「鹿島らしくないシーンが多かったな」と思ったけど、「鹿島らしい勝利だった」と感じた人は多かったと聞く。
それくらい「鹿島らしさ」をオンザピッチにおけるスタイルに落とし込むのは難しい事なのだ。あまりに解釈が分かれすぎるし、漠然としすぎる。
「鹿島らしさ」を表現してくれる小笠原満男や曽ヶ端準がいれば話は別かもしれないが、彼らもいないので選手によっても解釈が分かれている事だろう。
信仰と研究の切り分け
鹿島アントラーズは昔から変わらぬ「信仰」が息づくクラブだとは思うが、同時にオンザピッチにおける「研究」を疎かにしてきたクラブでもあると思う。(ゆえに近年はオンザピッチの研究を続けるクラブに後手を踏む事が多い)
少しだけ話を脱線する。
最近、『チ。』という漫画がメチャクチャ面白いんだが、そこに「信仰」と「研究」について語られるシーンがあって、今回のブログはその言葉をキーワードとさせていただく。
『チ。』の中で「信仰」と「研究」の違いを明確に説明する言葉があったので引用させていただく。
『自らが間違っている可能性』を肯定する姿勢が、学術とか研究には大切なんじゃないかってことです。第三者による反論が許されないならそれは——信仰だ。
『チ。―地球の運動について―』第4巻より
この「『自らが間違っている可能性』を肯定する姿勢が、学術とか研究には大切なんじゃないか。」ってところが、鹿島アントラーズにも当てはまる。
ゆえに私はザーゴを招聘したタイミングで、彼に大きな期待をした。
鹿島の畑ではない人が、オンザピッチの研究をしてくれるのだと。鹿島が疎かにしてきたオンザピッチの研究が進むかもしれないと。特定の偏った思考に異を唱えるような異端者としてのザーゴに期待をした。
しかしそのプロジェクトは上手くはいかなかった。ザーゴの手腕を疑うというよりは、鹿島アントラーズの監督をするのは我々が想像する以上に難しいのだろう。というのが私なりの解釈だ。
そして鹿島が研究を続ける姿勢をまだ取り続けているのか否か、は公にはされていない。
そこを不安に思っている人も多い事だろうと思う。
正直に言えば、今の鹿島は「信仰」の一本槍に頼って戦っているように見える。言い方を変えるならば、オンザピッチにおいては解釈のバラけやすい「鹿島らしさ」をベースにしようとしている。残念ながら私はそれを進化だとは思わないし、原点回帰だとも思わない。第二の小笠原満男が現れない限りは、過去を上回る事すら難しいだろう。
哲学としては鹿島が築き上げてきた「信仰」の部分は大切にしながらも、オンザピッチにおいては外からのエッセンスを取り入れた「研究」を続けなければいけない。ここの融合をしていかないと、鹿島はいつの日か時代に取り残されてしまうのではないかという気さえする。
信仰を残しつつ研究を続ける方法
鹿島が他チームを圧倒できるような結果を残す日が来るならば、どういう日だろうか。
私は鹿島アントラーズが持ってきた唯一無二の「信仰」を上手く活用するのはマストだと思う。戦い方やスタイル、というよりはピッチに立つ者の精神性としてジーコスピリッツは継承されていくべきだと思う。
戦い方やスタイルはどうあるべきか。(今の鹿島が悩んでいるように)ここが難しいところなんだと思う。
鹿島の信仰を理解している人間の中に、オンザピッチの研究に長けた人は少ない。一方でオンザピッチの研究に長けた人の中に、鹿島の信仰を真の意味で理解できる人も少ない。
それでも、絶対に譲らない「信仰」の部分と、時には自らが間違っているかもしれないという「研究」を上手く融合させながら進むしか無いのだと思う。
仮に今の鹿島のサッカーを否定しなくてはいけないとしても、私はサッカーが「研究」に値する何かだと信じたい。
おそらくこれは国内では鹿島にしか無い類の悩みだと思う。先駆者はいない。
▼紹介した本(Amazonに飛びます)