現役最後のキックは、内田篤人が積み重ねた日々の結晶だった

2020年8月23日。内田篤人が蹴った現役最後のキックはあまりに美しく、正確な軌道でゴールへの道筋を開いた。その1分後、内田篤人の現役生活は幕を閉じた。

カシマスタジアムから水戸の自宅に帰り、日付が変わって24日の明け方、このブログを書いている。まだ気持ちの整理は付いていないものの、彼への今の思いを言葉にして残しておきたい。

高卒スタメンと3連覇

内田篤人は私より2歳年上。

私が高校2年生になった時、内田篤人は高卒ルーキーとして鹿島に入団した。

2歳年上という事は、私が高校1年の時に3年だった人たちだ。つまり茨城県で言えば佐々木竜太や金久保順と同い年という事で、とてもイメージしやすい年齢差だった。

自分とたった2歳しか違わない選手が、2006年のJリーグ開幕戦でいきなりスタメンで起用された。

そのインパクトは非常に大きなもので、当時の私にとって、そして私のような茨城のサッカー小僧にとってはセンセーショナルなものだった。

当時の内田篤人は「線が細くて足の速い攻撃的な選手」という印象が強く、また周りの大人達も内田に対してそのような見方をしていたと記憶している。

隣で守る岩政に口酸っぱくポジショニングを指示され、その指示を聞いてるのか聞いていないのか分からないような、のらりくらりとしたリアクションで反応する。攻撃でも守備でも、どこか飄々とプレーする選手のように見えた。

態度は飄々としていたけれど、ピッチの上で内田篤人は結果を残していった。

あまりに頼もしい79年生まれのゴールデンエイジや先輩たちの下で、アントラーズらしさの薫陶を受けながら伸び伸びと自分らしさを発揮する。それが鹿島アントラーズに入団してから内田篤人だった。

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シャルケ時代と世界との戦い

内田篤人の本当の凄さを知ったのは、内田篤人がシャルケに移籍してからだった。

私は正直「線が細くて足の速い攻撃的な選手」という印象だった内田が、屈強な男たちが揃うブンデスリーガで通用するのか、不安に思っていた。

しかし私の不安はすぐに消えてなくなった。

驚いたのは守備面の”強さ”だ。

攻撃は、内田なら通用するだろうと想像していた。しかし守備でもブンデスリーガやチャンピオンズリーグに出てくるアタッカーたちを封じ込められるとは想像していなかった。

リベリーやロナウド、イスコやルーニー、代表ではネイマールと渡り合った。

1プレーでも気を抜けば試合を壊されてしまうようなアタッカーたちとの戦いを経ることで、内田篤人のプレーにも重みが出てきたように見えた。

その姿は鹿島時代に見せてくれた姿から更に成長した、たくましい内田篤人だった。

ドイツに渡ってからも、インタビューの随所で「自分の話」ではなく「チームが勝つ事」を常に意識し、口にしていた。そこに鹿島でプレーしていた事の矜持を感じた。内田篤人は鹿島アントラーズにいたんだと誇らしく思う事が出来た。

そして2014年のW杯、内田篤人は日本代表の不動の右SBとして全試合スタメンフル出場。

右膝を痛めながらのプレーではあったが、そして日本代表は残念ながらグループリーグで敗退してしまったが、「内田篤人ここにあり」というプレーを日本国民に見せてくれた。特に3戦目のコロンビア戦では、自らの命(膝)を懸けたようにも感じるほどの気迫を見せてくれた。

日本代表というチームの結果は出なかったものの、私は内田篤人のプレーに感動した。

しかし、今思い返してみれば”全開”の内田篤人を見た記憶は、その試合が最後だったかもしれない。

怪我との戦いと鹿島復帰

その後の内田篤人は、怪我との戦いを繰り返す日々だった。

いや、怪我との戦いというよりむしろ、メスを入れた右足と上手く付き合いながらのプレーが続いていたのだと思う。

ウニオン・ベルリンでのプレーを挟み、内田篤人は鹿島アントラーズに復帰する道を選んでくれた。

鹿島アントラーズに復帰したのが2018年。

ドイツから帰ってきた内田篤人は、ルーキーだった頃とは別人のような身体つきに逞しく変貌していた。

線が細く軽快だった若き日の内田篤人ではなく、強く激しいプレーとインテリジェンスが特徴的な内田篤人に変わっていた。

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新しいプレースタイルへの挑戦

ドイツから帰ってきた内田篤人のプレーは以前と変わった。何が変わっていたのか。

縦に上下動する回数を減らし、守備に穴を空けない。その替わりに右サイドから攻撃を確実に構築する。守備力を武器に、右サイドでコンビを組むサイドハーフの守備の負担を軽くする。そして、ドイツで身につけたロングフィードを一撃必殺の武器としてチラつかせる。4バックの右SBというよりはむしろ、3CB の右CBのような位置取りでのプレースタイルだ。

それは怪我と付き合う中で見出した、新しいプレースタイル。いわばゲームメーカー的な振る舞いをするプレースタイル。

きっと彼の頭の中では、オーバーラップを仕掛けたい場面は何度も何度もあったと思う。しかしそれを繰り返すと身体に負担がかかり、シーズンを通して戦えない。だから自分がアタッキングサードに侵入する機会は限定的にした。

上がれないのではなく、上がらない事を選択するしかなかったのだと思う。

理想と現実の狭間で、内田篤人なりに折り合いを付けた戦い方が、「新しいプレースタイル」へのチャレンジだったのではないか。そう思うと胸が苦しくなる。

そんな新しいプレースタイルで素晴らしいパフォーマンスを見せたのが、2019年の第2節、川崎フロンターレ戦。

内田篤人が素晴らしいロングフィードを伊藤翔に通し、ゴールをゲットした。

内田篤人のロングフィード

ドイツから帰ってきた内田篤人は、若き日の内田篤人よりも明らかにロングフィードが上手くなっていた。

インステップで、ストレートな軌道のボールを遠くのFW(あるいは対角線のSH)に届ける。

今の鹿島の中でキックが得意な永戸勝也でさえ、内田篤人のような美しい軌道のキックを蹴ることは出来ない。

プレッシングが苛烈になってくる現代のサッカーにおいて、一発のキックで状況を変えられる選手は重要だ。相手チームがピッチの片側に密集を作ってボールを奪いに来るという事は、逆サイドが空いているという事を示唆する。相手チームが前からプレッシングに来るという事は、相手DFラインの裏が空いているという事を示唆する。

しかし内田篤人とて、このキックを初めから蹴れたわけではない。習得するまでには人知れず努力を重ねていたであろう事は容易に想像がつく。

彼のキックの軌道は、一朝一夕で身に付くような代物ではない。

遠くを見ているからこそ蹴れる

内田篤人のロングフィードが武器になるのは「ただキックが上手いから」という理由だけではない。

右のタッチライン際でボールを受ける時の動作が常に「遠くを見てから近くを見て、判断する」という一連の流れになっている。

最後の試合となったガンバ大阪戦での美しいロングフィードは「遠くを見て、そこにボールを落とす」という、まさに内田篤人らしい一連の動作の賜物だった。

そもそも、SBというのは相手プレッシングのスタート(ターゲット)となりやすいポジションで、苛烈なプレッシングを前にプレーしなければいけない。自由な時間の少ないポジションといえる。

そんな中でも内田篤人はいつも相手のプレッシングを恐れず、ボールを「蹴れる場所」に置く事が出来る(もちろん縦に持ち出せる場所にも置ける)。

全方位にボールを入れられるような角度にボールを置けるのが内田篤人なのだ。

最近で言えば、アレクサンダー=アーノルドなども近しいボールの持ち方をする。

「正確に蹴れる」だけではなく、「遠くを見る」「蹴れる場所に置ける」という所までセットなのが内田篤人の凄みだ。

また永戸勝也の話になるが、永戸は内田篤人と同じようなボールの持ち方が出来れば格段にプレーの幅が広がるだろう。今はまだ同サイドしか覗けない場所にボールを置いているように見える。

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逆サイドを覗けるから相手を制す事が出来る

内田篤人のようにSBが逆サイド(対角線)まで覗けると、相手の守備の動きまで制する事が出来る。

なぜならば、プレッシングの原則は「圧縮」にあるからだ。選手間の距離を縮めるからこそ、数的優位を作って相手をハメられる。

横にしろ縦にしろ、プレッシングは「圧縮」とセットだと考えて良い。

相手が圧縮しているという事は、ピッチのどこかに空間がある。それを見つけるためには、「近く」から覗いてはいけない。

相手がボールを中心に圧縮をしているなら、ボールから遠い場所に必ず空間がある。それを見つけるために「遠く」から覗く。

遠くを覗けて、空間に正確にボールを落とせる選手がいるならば、相手は圧縮の方法について少し考えなければいけない。

「一発で変えられるから圧縮しすぎるのはやめよう。」と考えるかもしれない。そうなった時に初めて「同サイド(近く)」が活きてくる。

内田篤人がピッチで行っている自然な動作には合理的な理由があった。

これは小笠原満男がやっていた事と同じであり、おそらくこれから何十年先も変わらない、サッカーというゲームの原理の1つなのだ。サッカーが11人対11人で規定のピッチで戦うゲームである限り、”必ず”空間は生まれる。

これが出来る日本人のSBは少ない。というか多分、今は内田篤人以外にはいない。

ガンバ大阪戦のキック

ガンバ大阪戦の同点ゴールは、内田篤人が積み重ねてきた日々の結晶である美しい動作とキックが導いてくれたものだった。

ザーゴはこのゲームで再三、相手のDFラインの裏や逆サイドにボールを入れる事を指示していたように見えた。

しかし多くの鹿島の選手は「遠く」が見れず、近くへのパスを選択してしまっていた。

そんなストレスを抱えていたザーゴが、内田に「蹴ってほしい」と望んだ景色と、内田が「あそこはチャンスになる」と覗いた景色が重なった。それが同点ゴールのシーン。

ザーゴは内田について、試合後にこんなコメントを残した。

ほぼウチのチャンスメークは彼から生まれたと思います。SBとしてどうプレーするのかというのをよく知っている。チームとしてのオーガニゼーションを崩して無闇に攻撃することはできるのですが、決まり事を尊重しながら臨機応変にやるところを見せてくれたと思うし、若手が学ぶべき部分を多く見せてくれたと思います。

引用元:https://www.jleague.jp/match/j1/2020/082316/live/#coach

おそらくこれはザーゴの本心だと思う。ザーゴが望んだ景色を最後に見せてくれたのだから。

ザーゴのコメント通り、昨日の内田篤人のプレーを多くの選手が心に刻み、学び、そして超えていってほしいと思う。

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帰り際の鹿島サポーターの一言

ガンバ大阪戦を見終え、セレモニーも終わった後、コンコースを歩いていたら通りすがりの鹿島サポーターからこんな声が聞こえた。

「つまんなくても良いから勝てよ!」

カシマスタジアムからの帰り道、内田篤人の引退セレモニーの言葉よりも、正直この言葉が頭にこびりついてしまった。

そうそう、これこそが鹿島サポーターだと思った。

内田篤人のセレモニーで感動的な雰囲気になったけど、やっぱり結果は引き分けで、決して満足出来るものではなかった。私自身も、内田篤人引退の悲しさとホームで勝てなかった悔しさを天秤にかけたら、やっぱり後者の方が重かった。

でも、きっとそれで良いのだと思う。

そういう雰囲気が、内田篤人を日本一のサイドバックにしたのだから。

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