2021年10月1日に鹿島アントラーズがクラブ創設30周年を迎えるらしい。こりゃめでたい。
という事で、誰も興味なんか無いかもしれないけれど、私と鹿島アントラーズの出会いについて書いてみる。
鹿嶋という土地
鹿島アントラーズについて語る前に、私と鹿嶋という土地の出会いについて書きたい。
私の爺ちゃんは東京に住んでいた。爺ちゃんはオーダーメイドのワイシャツ職人だった。皇室のワイシャツを作るくらい凄い、日本一のワイシャツ職人だった。「出没!アド街ック天国」の文京区編にもワイシャツ職人として出演した事がある。自慢の爺ちゃんだ。
爺ちゃん鹿嶋生まれ、鹿嶋育ちだったらしい。(私の出身は日立市)
その関係で鹿嶋に親戚がおり、私も物心がつく前から何度も鹿嶋という土地には連れられていた。
「鹿嶋」といえば私の中で「親戚の家がある場所」だった。小さいながらに、同じ茨城だけど遠いなぁ~という印象があった気がする。
ってなわけで、私の血の4分の1は鹿嶋産という事になる。
親に連れられて行った昔のカシマスタジアム
そして鹿島アントラーズとの出会いである。
初めてカシマスタジアムに足を運んだのは、まだカシマスタジアムが小さい頃だった。親に連れられて見に行ったのが初め。私はたぶん小学生低学年くらいだったと思う。なので、初めてのカシマスタジアムの記憶は酷く曖昧だ。
おぼろげに覚えているのは、対戦相手が名古屋グランパスだったこと。鹿島にはジョルジーニョ、名古屋にはストイコビッチがいた気がする。という事くらい。これもちょっと自信が無くて曖昧なくらいだ。(ストイコビッチは間違いなくいたと思う)
その頃、すでに私はサッカー少年団でサッカーをしていたので、サッカーにはそれなりに興味があった。
しかしサッカーが大好きなのかと言われると、たぶんそうではなかった。たぶん遊戯王とかハイパーヨーヨーの方が好きだった。
なのでこの頃はまだ鹿島アントラーズの事が好きなわけではない。
鹿島アントラーズスクール
私と鹿島アントラーズの距離をぐっと近付けたのは、小学校高学年の時から通い初めた鹿島アントラーズのスクールだった。
私は地元の少年団と掛け持ちで、平日に友達と一緒に鹿島アントラーズのスクールに通うようになった。高萩校だ。
鹿島アントラーズのスクールでは、違う学校の子たちと一緒にサッカーをして、普段とは違うコーチからサッカーを教えてもらうので刺激的だったのを覚えてる。鹿島のスクールのコーチは、少年団のコーチとは違ってみんな優しかったのも覚えてる。
エネーレの、鹿島の選手たちが着てるのと同じ格好良いジャージを買ってもらって、それを着てサッカーするのも何となく高揚感があった。
スクールは少年団とは違ってミニゲーム中心だった事もあり、少年団の活動よりも少し遊びっぽくてリラックスしてサッカーが出来たような記憶もある。だから友達と一緒に鹿島のスクールに通うのは楽しかった。
そして鹿島のスクールに入ると、確か強制的に親がファンクラブ会員になる(たぶん)。私がスクールに通うようになってから、家にはフリークスが毎月届くようになった。たぶんスクール生向けの試合観戦チケットなんかもあったから、友達と一緒にカシマスタジアムに試合に観に行く事も増えた。(もちろん誰かの親に同伴してもらってスタジアムに行った)
低学年の頃に行ったカシマスタジアムよりも、高学年で行ったカシマスタジアムは超デッカくなっていて圧倒された。
また、私がスクールに通っていた頃の鹿島アントラーズは強くて、3冠を獲得したシーズンの試合は現地でもテレビでもよく見ていた。やはり記憶に残っているのは小笠原満男のジュビロ戦でのFK。スクールに通うようになって、鹿島のジャージなんかも身につけていたもんだから、この頃はすっかり鹿島ファンになっていたのだと思う。テレビの前で喜んだ記憶が残っている。
日立市出身のサッカー好きに鹿島ファンが多いのは、スクールやノルテの影響がデカいと思う。私も、私の周りもそんな人ばっかりだ。
当時のスクールでは年末にイベントみたいなのがあって、選手着用のユニフォームとかトレーニングウェアを貰えたりした。(今もやっているのかは不明)
私はサントスが実際に着用したユニフォームや、選手着用のエネーレのトレーニングウェア、エネーレの曽ヶ端のGKユニをもらった。
サントスの8番のユニフォームは今でも持ってる。私とサントスは体型がそんなに変わらないのか、結構ジャストサイズ。今でもここぞという時の勝負服はサントスのユニフォームを着る。2016のCSアウェイ浦和戦も着ていったし、2018ACL決勝も着ていった。今では一番の宝物になっている。
選手着用のトレーニングウェアは高校の部活の練習で着まくってダメにした。
曽ヶ端のGKユニは、「GKユニいらねーや」とか言って確か高校の時に後輩のGKにあげた(今思えばあげなければ良かった…超ほしい。)。
笠松陸上競技場での試合と本山雅志
また、私が小さい頃の鹿島は笠松でたまに試合をしていた。
笠松での試合では帰り時間に余裕があったから、選手を出待ちしていた。
この記憶も3冠を取った前後の頃だったと思う。鹿島の選手が競技場を出てバスまで歩いていくのを遠くから見て、私と友達は1人1人の選手に声をかけていた。
ほとんどの選手は聞こえていないか、あるいは無視してバスに向かう。
でも本山雅志だけはこちらを向いて笑顔で何かジェスチャーをしてくれたのを鮮明に覚えている。それが何のジェスチャーだったのかは分からなかったが、確実に小学生の私たちに向けたポジティブなジェスチャーだった。握手をしてくれなくても近くに来てくれなくても、私にとってはそれで十分だったし、とても嬉しかった。
それ以来、本山雅志は私のアイドルになった。鹿島というチームをより好きになるきっかけの出来事の一つだった。
このエピソードを他の鹿島サポーターに話すと、決まって「本山はそういう選手だったなぁ」という声が帰ってくる。きっといつもそういう対応をしてくれる優しい選手なんだと思う。
青木剛と握手
本山の話で思い出した。もう一つ、小さい頃の私が嬉しかった話がある。
私が小学生の頃にカシマスタジアムへ行った時、コンコースでその日ベンチ外だった青木剛がイベントをしていた。
イベント終わりコンコースを歩く青木と握手をしてもらおうと私は青木に近付いたが、周りにいる大人たちも殺到してしまいコンコースは混乱気味になった。そこでスタッフの人が「ごめんなさい、握手は出来ません」と青木を遠くに行かせようとした。
そこで青木は、その場を去る前に私を含めた子どもたちだけ選んで握手をしてくれた。その日の事は今も覚えている。私が初めて握手をしてもらったサッカー選手は青木剛だった。子供ながらに、子供にだけ握手をしてくれた事も理解できた。
青木剛という人の優しさが伝わり、本山の時と同じようにまた1つ鹿島アントラーズというチームが好きになった。
紙吹雪のゴール裏
巨大になったカシマスタジアムのゴール裏で応援している小学生~中学生の私にとっては忘れられない思い出がある。
それはゴール裏で紙吹雪を撒いていた事。
カシマスタジアムのゴール裏の2階で席につくと、大人たちが「点とった時にこれ撒いて!」と紙切れを大量に渡してくれた。紙切れをよく見るとエロ漫画だったのをよく覚えている。
友達と、カシマスタジアムでゴールが決まるたびに何度も紙吹雪を撒いて、それはそれはメチャクチャに楽しかった。あの光景は今でも脳裏に焼き付いて離れない。
紙吹雪が舞うピッチでプレーする鹿島の選手たちもメチャクチャに格好よく見えた。(今思えばプレーしにくかったとは思う。笑)
これが「スタジアム=楽しい」という私の原体験のような気もする。
日韓ワールドカップ
そして日韓ワールドカップが私を更にサッカーへとのめりこませる事になる。
日韓W杯は中学の時だった。
日本代表がワールドカップで初めて勝ち点1を獲得したその試合でゴールを奪ったのは地元日立市出身の、そして鹿島アントラーズの鈴木隆行だった。
隆行が日本のヒーローになったのは、私にとってはとてもとても誇らしい事だった。
隆行だけじゃない。中田浩二も、小笠原満男も、曽ヶ端準も、秋田豊もメンバーに選ばれていた。特に中田浩二は日本代表でずっと試合に出ていたし、格好良かったし、私と同じポジションだった事もあって私にとっては憧れの選手だった。
カシマスタジアムで応援していた選手たちがテレビの前で歴史を作る姿に私は熱中していた。同時にこの頃から、世界のスターにも目がいくようになった。のちに私の人生を変える事になるロナウジーニョとの出会いも、日韓ワールドカップだった。
サッカーの入り口が鹿島で、夢中になる入り口が日韓ワールドカップで、サッカーの楽しさを教えてくれたのがロナウジーニョ。私のサッカー人生のターニングポイントはその3つがあまりに大きい。
鹿島アントラーズのイメージと秋田豊
年齢を重ねて、だんだんとサッカーの内容や選手のプレーにも目がいくようになった。
私に鹿島アントラーズのイメージを植え付けたのは秋田豊だった。
鮮烈だったのは天皇杯の初戦。東京学芸大学との試合だっただろうか。とりあえず大学チームとの試合だった。私は多分中学生くらいだったと思う。
天皇杯だったのでスタジアムはあまり客入りが良くなくて、かなり前の方の指定席で試合を見れた。その試合で秋田豊はアマチュアの大学生FWを相手に(レフェリーに見えないように)肘打ちをしていた。いや、今思えばパワーがありすぎたから肘打ちに見えてしまったのかもしれないけど、とにかく執拗にダーティに大学生FWをマークしていた。別の試合での本田泰人も近い印象だった。
秋田のプレーからは「年齢とかカテゴリーとか関係なくて、今日勝つためになんでもやるよ」っていう、そういう思いが伝わってきた。
秋田や本田のプレーを見て「これがプロなんだな」と私は思った。こういうのがプロサッカー選手なんだと思った。
でも、もう少し年齢を重ねると、他の殆どのプロサッカー選手はそんな事やっていない事に気付いた。
「これがプロなんだな」という私の記憶に二重線を引いて、「これが鹿島なんだな」という言葉に上書きした。この時に「鹿島の特徴」が初めて強く印象に残った。それは未だに上書きされてないし、2007年以降に鹿島に復帰した小笠原のプレーは秋田や本田のプレーを思い起こさせるものがあった。そして彼は引退までそのスタンスを提示し続けてくれた。
高校生の私は自分の部活で手一杯で、カシマスタジアムに行く頻度は極端に減った。それでも鹿島の事はずっと気にしていた。2007年のJリーグ最終節は学校の模試を途中で抜け出して、サッカー部の友達と家で鹿島の試合を観て喜びを分かち合った。
大学生以降はまたスタジアムに行くペースが上がり……その先はもう言わなくていいか。今にいたる。
思い返せば……
私は自分の意志で鹿島が好きになったわけではない。気がつけばファンになっていた。
1人で鹿島が好きだったわけではなく、友達と、親と、など、常に誰かと鹿島の結果の良し悪しを分かち合ってきた。
歓喜の体験のほとんどに「あの試合はあいつとスタジアム行ったな~」と、友達の顔が何人も思い浮かぶ。
アイツも、アイツも、アイツも、アイツも、今は連絡を取らなくなったアイツも、未だに鹿島アントラーズの事を気にかけていると思う。いや、絶対気にかけているに決まってる。
なぜか。
みんなカシマスタジアムの特別にエモーショナルな空気を経験してるからね。
またスタジアムで感情を爆発させて、みんなで喜びを分かち合える日が来る事を願ってやまない。